Profile
篠塚 建次郎(しのづか けんじろう、1948年11月20日生)
ラリードライバー、東京都大田区出身
学生時代からラリーを始め、東海大学工学部工業化学科を卒業後、三菱自動車に入社。三菱自動車の社員ドライバーとして国内ラリーを総なめにした後、1974年より海外ラリーに進出。国際舞台での活躍が期待されていたが、1977年の排ガス規制により以後8年間ドライバー稼業はブランクとなりサラリーマンに徹する。1986年パリ~ダカールラリー出場、38歳で復活。1987年総合3位、1988年総合2位、1997年総合優勝。同時に1991年、1992年にWRCアイボリーコーストラリーでも2年連続優勝して人気実力ともに日本のラリーの代名詞となる。世界ラリー選手権 (WRC) とパリ・ダカール・ラリーで日本人初の優勝者である。
現在は経験を生かし、安全運転・省エネ運転・高齢者の安全運転等の講習会や講演等を勢力的に日本各地で展開。数年前より清里を拠点に、雪道を安全に走るための初心者向けおよびスポーツドラインビングのためのスクールを開催。また警察やクルマのイベントでのトークショーを行う。2002年にセネガルはダカールの隣のヨッフ市にマム アラッサン ライ ド ヨッフ小学校を設立。
2008年からソーラーカーレースに参入。『生涯現役』を目標にクロスカントリーラリーとクラシックカーラリーへの出場も続行中。
略歴
1967年、大学入学後に友人の誘いでナビゲーターを務めて以来ラリーに熱中する。在学中に三菱自動車工業のラリーチームにスカウトされ、1971年に入社。宣伝、営業、商品企画、海外関係の業務を行いながらラリードライバーとして参戦し、めきめきと頭角を現していく。1971年、1972年に全日本ラリー選手権で2年連続シリーズチャンピオンを獲得、1976年のWRCサファリラリーでは日本人初の6位となる。その後各自動車メーカーが排気ガス対策に重点を置くようになったことから、三菱もモータースポーツ活動から撤退。篠塚は8年間ドライバーとしてハンドルを握る事なくサラリーマンに専念した。1986年に俳優の夏木陽介と共にパリ・ダカール・ラリーに参戦。1987年には三菱自動車が本腰を入れてモータースポーツ活動を再開し、篠塚はラリードライバーとしての活動を本格化する。
1988年にはアジアパシフィックラリー選手権 (APRC) の初代チャンピオンとなり、WRCでは1991年のコートジボワールラリーでギャランVR-4をドライブし日本人ドライバーとしてWRC初優勝、1992年は同ラリーを2連覇するなど「ライトニング・ケンジロー」の異名を裏付ける実力を発揮。サファリラリーでも2年連続2位入賞を果たしている。
パリ・ダカール・ラリーでは三菱ワークスチームのパジェロをドライブし、1987年に総合3位、1988年に総合2位を獲得。F1にフル参戦した中島悟と並んで、日本人ドライバーの海外挑戦が国内メディアに大きく取り上げられ、「パジェロ・篠塚・パリダカ」の名が一般的に浸透する。年々競技が高速化する中で総合優勝の最前線で活躍し、参戦12年目の1997年に日本人初の総合優勝を成し遂げている。
2000年のパリ・カイロ・ラリーでは大転倒で骨折。より競技に集中するため家族と共にパリの三菱事業所に赴任したが、2002年のダカール・ラリー総合3位を最後に三菱自動車を退社する。三菱チームからの年齢を理由にした現役引退の突然の勧告に納得がいかず、フリーのプロドラーバーになる事を選択。30年間のサラリーマンドライバー生活に終止符を打った。
2003年にはプロドライバーとして日産自動車と契約し、ダカール・ラリーに参戦したが、3年連続途中リタイヤとなる。特に2005年は万全の態勢を整えて完走を目指すも転倒、リタイヤを余儀なくされた(日産のワークス活動はこの年まで)。体力の衰えやラリー活動40年を区切りとして2006年のダカール・ラリーを最後に引退することを発表。しかし、第10ステージで車両故障が発生しリタイヤ。有終の美を飾ることができず篠塚の思いは不完全燃焼のままとなる。
その後、東洋ゴム工業からラリー用タイヤの開発を目的として2007年のダカール・ラリー参戦のオファーを受け、イタリアのチームから日産・パスファインダーで出場することになった。その際、「前年の引退表明は"表彰台を狙うような走りで勝負するのは今回が最後"という意味であり、ラリーを引退するつもりはない」と現役続行を表明。
2008年はダカール・ラリーがモーリタニアのテロによる治安悪化で中止となり、2009年から開催地は南米に移った。アフリカの大地を走る事にこだわりを持つ篠塚は以来エントリーリトから姿を消している。
ダカール・ラリーとスライドするように篠塚はソーラーカーレースに参戦するようになり、OBである東海大学の学生たちとコラボして2008年と2010年「South African Solar Challenge」で連続総合優勝、2009年2011年「World Solar Challenge」で連続総合優勝と4連覇。
2009年夏にはモンゴル国内で開催されるラリーレイドであるラリー・モンゴリアに主催者側スタッフとして参加し、リタイアしたドライバー・ナビゲーター等を収容する「カミオンバレー」の運転を担当した。それまで篠塚は「トラックを運転した経験はなく、免許もない」ということで大型免許を取得するところからスタートし開催期間中はほとんど不眠不休でリタイアした車の収容作業にあたるドライバー人生初の経験を楽しんだ。
2010年5月、高橋尚子がフロントランナーを務める「スマイル・アフリカ・プロジェクト」の「第2回ソトコト・サファリ・マラソン」において、先導車として用意されたソーラーカー「ELA」をドライブ。7月群馬県の伊香保温泉で開催されたクラシックカーラリー「スプレンドーレ伊香保」にアルファロメオ・2600スパイダーで出場するなど仕事の幅をひろげる。
2011年『ラフェスタ ミレミリア』に初参加してから春は『ラフェスタ プリマベーラ』,秋は『ラフェスタ ミレミリア』を息子建太と一緒にヒーレーシルバーストーンで走り抜く事が恒例となった。この年の冬から八ヶ岳山麓の野辺山で“スノードライビングスクール”を開校。雪道走行の実地教習と車好きのためのトライアルを始めている。
ソーラーカーとの出会いからECOカーに目覚めた篠塚は東海大学に次いで芦屋大学・立命館大学等の学生たちとコラボ。エコロジーを重視したソーラーカーやEVカーで「鈴鹿ソーラーカーレース」やギネス記録に挑み続け、2013年11月に秋田県大潟村 “ソーラースポーツライン”で『電気自動車一充電航続距離(途中無充電)世界記録』に挑戦。日本EVクラブが2012年4月にギネス登録した記録:1003.184㎞を大幅に延ばして1300.000㎞を走行。新たなギネス記録を樹立した。
さらに2014年8月、沖縄県宮古島市の下地島空港の滑走路にてソーラーカー世界最高速記録を更新。ギネス公式認定員立会いのもと、それまでの世界最高速記録だった88.738km/hを破る91.332km/hを出して世界最高速記録を更新し認定されている。
2015年3月伝統のヒストリックラリー選手権『コスタブラバ』(スペイン)に東京大学工学部の学生たちで編成する「Team剛」のドライバーとして挑戦。2016年は「Team MUSASHI」のドライバーで『タルガ ロトルア』(ニュージーランド)に、2017年は「Team若武」のドライバーとして『タルガ バンビーナ』に参戦している。
さらに2015年『アジアクロスカントリーラリー』に非力なスズキジムニーで参戦してクラス優勝と総合2位を勝ち取りレジェンド篠塚の存在をアピール。2016年もクラス優勝と総合10位を奪取。参戦が恒例となりつつある。
著書
篠塚建次郎 無敵のNo.1テクニック(三推社)
より熱く耐えて挑む(日本文芸社)
楽しいアウトドア・クッキング(日本文芸社)※三浦弘子との共著
砂漠の死闘―’94パリ‐ダカール‐パリ(日本文芸社)
風のように―パリ・ダカ13万キロ(読売新聞社)
ラリーバカ一代(日経BP社)